ログイン美奈子は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
憧れのスターが、自分の隣で、まっすぐにこちらを見つめている。 「え、でも……お忙しいんじゃ……」 「今日はもうオフです。それに――」 碧は少し声を落として、 美奈子だけに聞こえるように言った。 「こんな風に、飾らずに話せる人と飲むのって、実は貴重なんですよ」 その言葉の温度に、美奈子の胸の奥が小さく疼いた。 頬を赤らめる美奈子を見て笑顔になる碧。 「マスター!!彼女もおかわりをお願いします」 マスターは、オーダーに微笑みながら 颯爽にカクテルを出す。 「じゃあ、改めてこの出会いに乾杯」 美奈子は碧と乾杯をする。 それから、気軽に会話の雰囲気をエスコートしてくれる碧にお酒のペースが進み… 気づけばラストオーダーまで、碧と一緒にいた。 「じゃあ、そろそろ行きましょうか?」 と席を立つ碧。 財布を取り出し、焦りながら… 「マスター、私、お会計…」 笑顔でマスターが一言。 「お会計は、お連れ様から頂いておりますよ」 「えっ!?」と碧を見ると、碧が一言。 「素顔の俺もカッコつけさせてくださいよ」 「行きましょうか」 碧が手を取る。 私は顔を真っ赤にしながら、 碧と一緒にBARをでた。 そこから、お酒が進み、 夢の時間がふわふわと意識を朦朧とさせる。 はっと目を醒めると、知らない天井が美奈子を迎える。 気付けば、来ていた衣服も床に散らばっている。 「はぁ、年甲斐もなく何やってんだろ…」 と横を見ると…!? 碧が寝ている。 「……嘘っ……でしょ?……」 美奈子は声にならない悲鳴を、 両手で口を押さえて押し殺した。 隣で規則正しい寝息を立てているのは、 間違いなく碧だった。 乱れた前髪の下、閉じた瞼。 テレビで観るときの完璧に整えられた姿とは違う、無防備な寝顔。 それがかえって「本物なんだ」という現実を、美奈子に突きつけてくる。 (どうしよう、どうしよう、どうしよう) 頭の中で同じ言葉がぐるぐると回る。 昨夜の記憶は、まるで靄がかかったフィルムのように、ところどころ途切れていた。 BARを出たこと。 タクシーに乗ったこと。 碧が笑いながら何か冗談を言っていたこと。 そして、ホテルの部屋に入ってからの記憶は――正直、断片的にしか残っていない。 美奈子はそっと布団の中を確認して、もう一度短く悲鳴を上げそうになった。 慌ててもう一度口を塞ぐ。 (私、四十四歳よ?娘が高校生なのよ?こんな、こんなこと……) 自己嫌悪と、それでもどこか否定しきれない甘い余韻とが、 胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていた。 とにかく、まずは服だ。 床に散らばった自分の服を回収しなければ。 美奈子はできるだけ音を立てないようにベッドから抜け出そうとした。 その瞬間。 「……あれ、もう起きたんですか?」 背後から、寝起きの掠れた声が聞こえた。 美奈子の体がびくりと固まる。 恐る恐る振り返ると、碧が片肘をついてこちらを見つめていた。 寝起きだというのに、その眼差しには昨夜と変わらない、どこか人懐っこい光がある。 「お、おはよう……ございます」 美奈子は反射的に敬語になった。 シーツを胸元まで引き寄せながら、視線を泳がせる。 碧はそんな美奈子を見て、小さく噴き出した。 「なんで敬語なんですか。昨日はあんなに」 「あ、あんなにって、なに!何も言わないで!」 「言いませんよ、言いませんけど」 碧はくすくすと笑いながら、体を起こした。 シーツがずれて、鍛えられた上半身が露わになる。 美奈子は慌てて目を逸らした。 「あの……碧さん」 「碧でいいですよ、昨日もそう呼んでくれてたし」 「碧、くん……昨日のこと、その、私……」 言葉を選ぼうとして、うまく出てこない。 後悔しているのか、それとも―― 自分でも自分の気持ちがわからなかった。 碧はしばらく美奈子の様子を見つめていたが、 やがて優しい声でこう言った。 「後悔してます?」 直球すぎる質問に、美奈子は言葉を詰まらせた。 「それは……」 「無理に答えなくていいですよ。ただ、俺は」 碧はベッドのヘッドボードに寄りかかりながら、 どこか遠くを見るような目で続けた。 「後悔はしてません。むしろ、久しぶりに、素の自分でいられた気がして」 「素の……自分?」 「俺、いつも『Sky beatの碧』として見られるじゃないですか。 ファンの前でも、仕事の人の前でも、テレビの前でも。 昨日、美奈子さんが俺のこと見てて、でも全然、媚びたりしてなかったでしょ。 グラスひっくり返しちゃって、あたふたして。 あの反応が、なんか……新鮮だったんですよね」 美奈子は驚いて碧の顔を見た。 軽薄なイメージとは違う、思いのほか真剣な表情。 「それに」 碧は少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、 美奈子の頬にかかった髪を、そっと指で払った。 「美奈子さん、可愛かったですよ。昨日も、今も」 「なっ……」 顔が一気に熱くなる。 四十四歳にもなって、こんな風に胸が高鳴るなんて、 自分でも信じられなかった。 「か、からかわないで。私はもう、いい歳のおばさんなんだから」 「おばさんって年齢じゃないでしょ、全然。 それに――」 碧は美奈子の手を取って、指先に軽くキスを落とした。 「歳とか、そういうの関係なく、 昨日の美奈子さんに、俺、惹かれたんですよ」 美奈子は言葉を失った。 心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。 これは夢なのか、現実なのか、境目がわからなくなりそうだった。 「あ、あの……でも、私たち、住む世界が違うでしょう? あなたは芸能人で、私はただの……」 「事務のお仕事してる、シングルマザーですよね。 昨日、色々聞きましたよ」 「え、そんなことまで話したの、私」 「はい。娘さんが高校生だってことも、 十五年間ずっと一人で頑張ってきたことも」 美奈子は恥ずかしさで消え入りそうになった。 酔った勢いとはいえ、初対面の――しかもファンとして憧れていた相手に、 そんな身の上話までしてしまっていたなんて。 「ごめんなさい、変な話ばっかりしちゃって……」 「謝ることないですよ。むしろ、聞けてよかった。 美奈子さんがどんな風に生きてきたか、 少しでも知れたことが、俺には嬉しかったので」 碧の言葉には、芸能人特有のリップサービスとは違う、 静かな誠実さが滲んでいた。 美奈子はしばらく黙って、碧の顔を見つめた。 テレビの中の完璧なアイドルではなく、 今、目の前にいるのは、ただ一人の青年だった。 悩みも、寂しさも、疲れも抱えているであろう、一人の人間。 「私……」 言いかけて、美奈子は口をつぐんだ。 何を言おうとしたのか、自分でもよくわからなかった。 碧はそんな美奈子を急かすことなく、 ただ静かに待っていてくれた。 「私、正直、混乱してる」 ようやく美奈子は、絞り出すように言葉にした。 「昨日会ったばかりの人と、こんな……こんなことになって。 しかも相手は、テレビの中でしか会えないと思ってた人で。 夢みたいで、でも同時に、すごく怖い」 「怖い?」 「だって、これで終わりでしょう? 碧くんはこれから、東京に戻って、また忙しい毎日が始まる。 私はまた、いつもの日常に戻る。 きっと、これは……一夜限りの、綺麗な思い出ってやつなんでしょう」 言い聞かせるように、そう口にした。 そう思っておいた方が、傷つかずに済むと、 経験上、わかっていたから。 碧はしばらく黙っていた。 そして、ふいに美奈子の手をぎゅっと握った。 「そう思われても仕方ないと思います、正直。 俺の立場だと、簡単に『付き合いましょう』なんて言えないし、 言ったところで、美奈子さんを困らせるだけかもしれない」 美奈子は俯いた。 やっぱり、そうだよね――そう思いかけたとき。 「でも」 碧は美奈子の顎に手を添えて、そっと顔を上げさせた。 「俺、一夜限りのつもりで、昨日美奈子さんを誘ったわけじゃないんです」 まっすぐな瞳が、美奈子を捉える。 「連絡先、交換してもらえますか」 「え……」 「もちろん、無理にとは言いません。 美奈子さんにも、娘さんとの生活があるし、 これ以上関わったら、色々大変なことになるかもしれない。 それでも、俺は――」背の高い、優しそうな雰囲気の男性だった。 結愛が警戒した表情を見せると、男性は慌てたように封筒を差し出す。 「怪しいものじゃないよ。これ、お母さんに渡してほしくて」 白い封筒。表には丁寧な文字で「美奈子様」とだけ書かれている。 「……お母さんの、知り合い?」 「うん。仕事の関係でね。ちゃんと本人から渡してって頼まれたものだから、安心して」 男性はそれだけ言うと、軽く会釈をして去っていった。 結愛はしばらくその後ろ姿を見送りながら、封筒を制服のポケットにしまった。 (誰だろう。お母さん、こんな綺麗な字を書く知り合いいたっけ) なんとなく胸がざわついたけれど、結愛はそれ以上深く考えないことにした。 夕方、仕事から帰ってきた美奈子を、結愛が玄関で待ち構えていた。 「お母さん、おかえり。今日ね、学校に向かうところで男の人に呼び止められて」 「男の人?」 美奈子の表情が一瞬、強張る。 「お母さんの知り合いだって。これ、渡してって」 差し出されたのは、白い封筒だった。 見覚えのない筆跡。 けれど、なぜか胸の奥がざわりと音を立てる。 「ありがとう、結愛。手、洗ってきなさい」 「はーい!わかった」 結愛が洗面所に向かうのを見送ってから、美奈子はリビングのソファに腰を下ろした。 封筒を裏返す。差出人の名前はない。 ただ、封を切った瞬間、ふわりと香った紙の匂いに、なぜか覚えがあるような気がした。 中から出てきたのは、便箋と――小さな箱。 便箋を開くと、少し丸みを帯びた、けれど几帳面な文字が並んでいた。 『急なお手紙すいません。 美奈子さんにもう会えないとメッセージをいただいてから、美奈子さんに僕の覚悟を知ってほしくていろいろと準備をしました。 今度、僕らのアルバムリリースを記念したパーティーをする予定で…… 是非、娘さんと二人で参加して欲しいです。 僕の特別なお客様だから、とスタッフには説明しているので、一緒に入れたネックレスを受付に見せてください』 美奈子の手が、止まった。 (碧……) 心臓が、大きく跳ねる。 震える指で、小さな箱を開ける。 中には、トップにアクアマリンをあしらった、上品で可愛らしいネックレスが収まっていた。 碧の瞳の色を思わせる、澄んだ水色。 「碧ったら、そんな無茶な……」 呟いた声は、思っ
「聴いてください... On My Way to Cinderella」ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella雨上がり 君を見つけた夜少し寂しそうに笑ってたね誰かのために生きてきた時間を隠すようにグラスを揺らしてた「もう恋なんてしないから...」その言葉の奥にある涙を僕だけは見逃せなかったーーー♪♪♪(優しく指を弾くギターの弦から流れる音色に碧の優しさが、心に響く...)時計の針は戻せなくても未来なら変えられるから君が閉じたその心のドアを焦らず 何度でも叩くよ(ステージ上がライトアップされて、翠はこちらをみているように画面を見つめている)ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日、僕は君を迎えに行くガラスの靴なんていらない君のその笑顔だけあればいい幸せになる順番なんて誰にも決められないから遅すぎる恋なんてない君は今でも僕だけのシンデレラーーー♪♪♪(「俺、一夜限りのつもりで、昨日美奈子さんを誘ったわけじゃないんです」あの時、碧が話していた決意が目の前にいや、世界中に流れている...私なんかのために...今は、勘違いでも良い。そう感じていた。)「一夜限りの綺麗な思い出...」震える声でそう言ったねその優しさも その強さも全部抱きしめたいと思った君が誰かを守るように今度は僕が君を守りたいーーー♪♪♪時が君を連れて行って忘れることなんて出来やしない会えない時間だけが君への決意を僕にくれた。もしこの歌が届くならもう一度だけ君に笑ってほしいーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日も僕は君を迎えに行く魔法なんてなくてもいい君と歩く明日があれば時計が零時を告げたってこの恋は終わらせない“もう幸せになっていい”そう伝えるために今日、僕は君を迎えに行くOn My Way to Cinderellaーーー♪♪♪曲が終わり、碧が照れながら笑顔で言う。「聴いてくれてありがとうございます」美奈子の頬には、静かに涙が伝っていた。それを見てびっくりしている結愛。「お母さん!どうしたの!そんなに感動した!?」「いや...違うの...ごめんね。」無理に笑おうとするけど、涙が止まらない。その涙は、碧を信じ
結愛を抱きしめながら、美奈子は自分の心の中に、静かに芽生え始めていた感情の存在に、改めて気づかされていた。昨夜、あのBARのカウンターで、隣に座った碧が屈託なく話しかけてきた瞬間から、何かが変わり始めていた。あの出会いは、あの”約束”を揺るがすものになりつつある。それが、幸せなことなのか。それとも、また同じ過ちを繰り返すことになるのか。美奈子には、まだ分からなかった。「……ちゃんと、朝ごはん作るね」しばらくして、美奈子はそう言って立ち上がった。これ以上、この話を続ける気力が、今はなかった。「学校行く準備、していいよ」「……うん」結愛は小さく頷いて、自分の部屋へと戻っていった。一人になったリビングで、美奈子はキッチンに向かいながら、スマートフォンをちらりと見た。碧からのメッセージが、一件届いていた。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』その短い文面を見つめながら、美奈子は深いため息をついた。ーーーどうすればいいんだろう。答えの出ない問いを胸に抱えたまま、美奈子は包丁を手に取った。娘のために、いつも通りの朝食を作るために。朝食を終え、結愛を学校へ送り出した後。一人になったリビングで、美奈子はスマートフォンを手に取った。画面には、まだ既読のついていない碧からのメッセージが表示されたままだった。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』何度も読み返した文面。昨夜は、この言葉に胸を弾ませていたはずなのに。今はただ、重たい石を飲み込んだような気分だった。結愛の顔が、脳裏に浮かんでは消える。 ーーまた、あんな思いするのは、絶対に嫌だから!美奈子は深く息を吸い、ゆっくりと文字を打ち始めた。『昨日はありがとう。楽しかった、本当に。でも、今朝帰ってから、娘にすごく怒られちゃって』打っては消し、打っては消しを繰り返す。素直に書こうと決めたはずなのに、指先がなかなか進まなかった。『高校生の娘がいるのに、朝帰りなんて、って。当然だよね。ちゃんと考えなきゃいけないことを、私、忘れてた』一度、深呼吸をする。ここから先が、一番言いたくなかった言葉だった。『碧くんのことは嬉しかった。本当に。でも、私にはもう、娘との約束があるの。誰かとまた一緒にいるってこと、簡単に
タクシーを降りたのは、朝の六時を少し過ぎた頃だった。初夏の空はもう白み始めていて、美奈子は昨夜のドレスの上にトレンチコートを羽織っただけの格好で、マンションのエントランスに向かって歩いていた。足取りは軽いのに、どこか後ろめたい。まるで高校生が門限を破って帰ってきたような、そんな感覚が胸の奥にあった。 ――昨夜、あのBARで初めて会った時の碧の笑顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。二十歳も年下の青年に、こんな気持ちにさせられるなんて。四十四にもなって、まるで恋を知ったばかりの少女みたいだ。エレベーターを降り、玄関の鍵を開ける手が、少しだけ震えた。物音を立てないよう、そっとドアを開く。リビングの明かりが、ついていた。「……ただいま」小さな声で言いながら靴を脱いでいると、ソファの方から声が飛んできた。「おかえりって言えると思う?」結愛だった。制服のまま、ソファに膝を抱えて座っている。目の下にはうっすらとクマができていて、スマホの画面には見覚えのあるSNSのタイムラインが表示されたままだった。「結愛……お泊まり会は?もう学校あるでしょ、早く寝な――」「寝れるわけないじゃん...連絡もつかないし!何からあったのかと思って抜けてきた!」結愛の声は、刃物のように鋭かった。「お母さん、朝帰りだよ? 分かってる? 高校生の娘がいる家の母親が、朝の六時に帰ってくるって、どういうことか分かってんの?」「それは……」「年甲斐もなく、朝帰りとかやめてよね!!」その一言が、美奈子の胸に深く刺さった。反論できない。事実、その通りだから。美奈子は玄関先に立ち尽くしたまま、コートの袖をぎゅっと握った。昨夜の高揚感が、急速に冷めていくのが分かる。「ごめんなさい......心配かけたね」「心配とかそういう次元の話じゃなくてさ」結愛は立ち上がり、キッチンの方へ向かいながら、背中越しに言った。「誰と一緒だったの」問いというより、確認だった。まるで、答えをすでに知っているような口ぶりで。美奈子は言葉に詰まった。碧のことを、どう説明すればいいのか。二十歳年下のアイドルと、BARで出会ったその日のうちに一晩過ごしたなんて、口が裂けても言えない。少なくとも、今は。「……友達と、飲みすぎちゃって。そのまま友達の家に泊まったの」我ながら、下手な嘘だと思っ
碧は一度言葉を切って、 まっすぐに美奈子を見つめた。「美奈子さんのこと、もっと知りたいです」その言葉に、美奈子の胸の奥が、 これまで感じたことのない温かさで満たされていく。十五年間、恋愛なんて自分には縁のないものだと思って生きてきた。 娘のため、生活のため、ただがむしゃらに働いて。 自分の心の中にある「女性」としての部分は、 とっくに眠ってしまったものだと、そう思い込んでいた。けれど今、目の前にいる青年の言葉が、 その眠っていたはずの部分を、静かに揺り起こしていく。「碧くん……」「はい」「私、本当にただの、四十四歳の普通の女なのよ。 綺麗でも若くもないし、芸能人の彼女なんて、 とても務まらないと思う」「務まるとか務まらないとか、そういうことじゃないんです」碧は美奈子の手を両手で包み込んだ。「俺は、美奈子さんだから、知りたいと思ったんです。 綺麗事に聞こえるかもしれないけど、本当にそれだけなんです」窓の外から差し込む朝の光が、 二人を優しく包んでいた。美奈子はしばらく迷った末、 バッグからスマートフォンを取り出した。「……本当に、いいの?」「もちろんです」碧は嬉しそうに笑って、 自分のスマートフォンを差し出した。連絡先を交換しながら、美奈子はふと思った。 これは、人生の思わぬ寄り道なのか、 それとも、新しい何かの始まりなのか。答えはまだ、わからない。 けれど、少なくとも今この瞬間、 美奈子の心は、久しぶりに、確かに弾んでいた。「あ、そうだ」碧が何かを思い出したように言った。「今度、俺たちのライブがあるんですけど、 よかったら観に来てくれませんか? 関係者席、用意しますから」「え、そんな、悪いわよ」「悪くないですよ。俺が呼びたいんです」碧はいたずらっぽく笑って続けた。「それに、美奈子さんが客席で応援してくれてると思うと、 俺、いつもより頑張れる気がするので」美奈子は思わず笑ってしまった。 こんな風に誰かに求められるのは、 一体いつ以来だろう。「わかった。じゃあ、行かせてもらおうかな」「約束ですよ」碧は小指を差し出した。 美奈子は少し照れながら、その小指に自分の小指を絡めた。まるで、少女に戻ったような気分だった。けれど同時に、頭の片隅では現実的な不安も渦巻いていた。 もし、これが週刊誌にでも知られたら
美奈子は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。憧れのスターが、自分の隣で、まっすぐにこちらを見つめている。「え、でも……お忙しいんじゃ……」「今日はもうオフです。それに――」碧は少し声を落として、美奈子だけに聞こえるように言った。「こんな風に、飾らずに話せる人と飲むのって、実は貴重なんですよ」その言葉の温度に、美奈子の胸の奥が小さく疼いた。頬を赤らめる美奈子を見て笑顔になる碧。「マスター!!彼女もおかわりをお願いします」マスターは、オーダーに微笑みながら 颯爽にカクテルを出す。「じゃあ、改めてこの出会いに乾杯」美奈子は碧と乾杯をする。それから、気軽に会話の雰囲気をエスコートしてくれる碧にお酒のペースが進み…気づけばラストオーダーまで、碧と一緒にいた。「じゃあ、そろそろ行きましょうか?」と席を立つ碧。財布を取り出し、焦りながら…「マスター、私、お会計…」笑顔でマスターが一言。「お会計は、お連れ様から頂いておりますよ」「えっ!?」と碧を見ると、碧が一言。「素顔の俺もカッコつけさせてくださいよ」「行きましょうか」碧が手を取る。私は顔を真っ赤にしながら、碧と一緒にBARをでた。そこから、お酒が進み、夢の時間がふわふわと意識を朦朧とさせる。はっと目を醒めると、知らない天井が美奈子を迎える。気付けば、来ていた衣服も床に散らばっている。「はぁ、年甲斐もなく何やってんだろ…」と横を見ると…!?碧が寝ている。「……嘘っ……でしょ?……」美奈子は声にならない悲鳴を、両手で口を押さえて押し殺した。隣で規則正しい寝息を立てているのは、間違いなく碧だった。 乱れた前髪の下、閉じた瞼。テレビで観るときの完璧に整えられた姿とは違う、無防備な寝顔。 それがかえって「本物なんだ」という現実を、美奈子に突きつけてくる。(どうしよう、どうしよう、どうしよう)頭の中で同じ言葉がぐるぐると回る。 昨夜の記憶は、まるで靄がかかったフィルムのように、ところどころ途切れていた。 BARを出たこと。タクシーに乗ったこと。碧が笑いながら何か冗談を言っていたこと。 そして、ホテルの部屋に入ってからの記憶は――正直、断片的にしか残っていない。美奈子はそっと布団の中を確認して、もう一度短く悲鳴を上げそうになった。







